週末は谷中へ 二つの顔を持つ大将の東京前寿司

週末は谷中へ 二つの顔を持つ大将の東京前寿司

近年、都心の寿司屋の値段は年々高騰しており、高級店は飲んで食べて一人3万円を超える。しかし、何度もリピートしたいのは良心的な価格で期待以上の満足感を提供するお店ではないだろうか。

そんな理想を満たすのが、千駄木駅から徒歩3分。下町情緒あふれる谷中のよみせ通りで金土日のみ営業する『松寿司』だ。

江戸前の精神で柔軟に手間をかける

メニューは昼4950円・夜9350円(税込)のおまかせコース一本。8割以上の客が次の予約を入れて帰るので、4カ月先まで満席だという。

3代目店主の野本恭之さん(41歳)は寿司の本流である江戸前の技法を残しながらも、特定の魚介類に限定せず、柔軟な仕事を施す “東京前”を掲げる。

「僕は産地にこだわらず、そのときに獲れた魚の中でベストのものを使っています」

江戸前が誕生したとされるおよそ200年前、鮮度が落ちやすいマグロの赤身は、保存のため長時間しょうゆに漬け込んでいた。その伝統的な手法を守る店も少なくないが、野本さんは2秒ほどしか漬けない。マグロ本来の香りやうま味を活かすためだ。

おいしさの中に驚きを

真っ白なのれんをくぐると、左手のカウンターに8席、右手に4人掛けのテーブルが2つ。美しく磨かれた白木のカウンターは、品があり印象的だ。

夜のコースの冒頭はつまみから。創意あふれる料理が次々登場する中で、アジフライは寿司屋らしからぬ3代目のオリジナル。暑い季節、最初にビールを飲む客向けに出したところ、今では松寿司を象徴するメニューの一つになった。ガリとたくあんを入れたタルタルソースは、色よく揚がったフライと相性抜群。

手の込んだつまみを堪能したら、いよいよ握り。白身、光りもの、エビ、マグロ、穴子などおよそ10種類の握りがテンポよく出される。

「シャリは最初から最後まで付き合うので、どのネタにも合うように工夫しています」

甘みや旨味のバランスの良い品種の米を使い、赤酢を2種類合わせているという。

季節の鮮魚は、豊洲市場の仲買から仕入れる。自ら開拓した業者との信頼関係は厚く、品の選定は目利きのプロに任せている。松寿司の看板でもあるマグロは、高級店にも勝る、素晴らしい逸品だ。

巻かないスタイルのウニドッグは、野本さんが手渡し。そのままかぶりつくと、磯の香りとクリーミーな甘さが口の中に広がる。

ボリューミーなトロと細長く刻んだたくあんを組み合わせた「トロたく」は、味も見た目も豪快な巻き寿司。

「小さい頃ステーキ屋に連れて行かれて、目の前の鉄板で焼いてもらった肉を食べたときの感動を覚えている。驚きや楽しさがあると、人はよりおいしいと感じるんだろうなって思うんです」

お酒は40年ほどの付き合いがある千駄木の老舗酒屋『伊勢五本店』から仕入れている。銘柄はすべて野本さんのセレクト。日本酒がグラスで880円(税込)、とっくりで1100円(税込)と良心的なのがうれしい。

ピンチのときに救われたいなり寿司

松寿司を語るうえで外せないメニューがある。それは持ち帰り用のいなり寿司(6個970円/10個1620円・税込)だ。

野本さんの祖父で初代の野本伊勢松さんは、1940年に千駄木駅前に小さな立ち食い寿司屋を開く。戦争による中断を経て1951年に現在の場所に移転したが、数年後に消費者の魚離れが起きる。そのときに始めたのがいなり寿司だった。

時は流れ2020年。新型コロナウイルスまん延による緊急事態宣言下でも、いなり寿司がピンチを救ってくれた。お店の張り紙やSNSを見た人たちが大勢買い求めたのだ。

だしが染み込んだ油揚げはしっとり甘く、金ゴマの香りとレンコンのシャキシャキとした食感が層になって楽しめる。

営業再開後も、月2回ほどのペースでテイクアウトを継続している。販売日は日曜日が多いが不定期のため、店頭で随時告知している。

二足のわらじをはきながら発信したい

いなり寿司の受け渡しは、数軒隣にあるキッチンスタジオ『YANAKA BASE』で行う。

実は野本さん、料理家としての顔も持つ。料理本の出版やNHK『きょうの料理』に出演。TVや雑誌等にレシピを提供したり、広告のフードコーディネートをするなど、幅広く活動。YANAKA BASEは撮影や試作ができるキッチンスペースとして使っている。

「僕の中で寿司屋だけっていうのは考えにくくて、二つがライバルのように意識し合っている。どちらかが上がれば、もう一方も頑張らないといけない気分になるんです」

月曜日から木曜日は料理家の仕事をしつつ仕込みを行い、週末は寿司屋として板前に立つ。これが野本さんのルーティンだ。

下町らしさを残しつつ志とコスパは高く

先代である父の急逝で後を引き継いだ野本さんは、5年で人気店に育てた。

つけ場に立つときはねじり鉢巻きの寿司職人姿に変身。カウンターを舞台にパフォーマーとして場を盛りたてる。三代にわたってシャリを炊いてきた母・きみいさんと共にアットホームな店の雰囲気づくりに努めている。

「いい寿司を食べられて酒も飲んでだいたい1万円。こういう店があったら自分も行きたいなというのが、松寿司を継いだときに描いたイメージ。日常にも、ハレの日にも使ってもらえる。女性一人でいらっしゃる方も多いんですよ」

野本さんは、来るたびにおいしくなっていると言われたいという。二つのキャリアで培った引き出しの多さを武器に、東京前をこれからも進化させていく。

松寿司
東京都台東区谷中3-2-7 map
03-3821-5087
金曜 18:00~22:30
土曜・日曜 12:00~14:00/18:00~22:30
月曜~木曜定休
https://www.matsusushi.tokyo.jp/